湛海律師は、宝山寺中興の祖として知られる江戸時代初期の僧侶です。宝山寺によくお参りされる方は、よくご存じだと思います。
律師はこの時代にしては珍しく長寿で、入寂されたのは88歳(数え年;以下、数え歳表記です)でした。それだけに、紆余曲折、波乱万丈な一生を過ごした人であった、と言えます。
今回は律師の生涯を三回に分けて、お話をしていきたいと思います。
湛海律師は、1629年 伊勢国の安濃郡一色村に生まれました。父は山田重忠、母は辻氏の者とされています。生まれつき素直な、人情の厚い性格で、書画や彫刻に優れていた、そうです。
律師は早き頃から仏教への道を志願していましたが、父には反対されていました。なぜ、仏教に関心を寄せるようになったのかは定かではありません。
17歳(1645年)11月末に京都愛宕山の白雲寺(地蔵菩薩霊場の本場)に登り、7日間の断食の上、本尊である勝軍地蔵尊に、仏道への決意の固さを誓い、今後の仏道修行への力添えを願いました。
翌年18歳となった律師は、自ら剃髪して江戸深川の永代寺に趣きました。周光法院のもとで真言密教を学ぶためです。
永代寺にて4年間修行した後の22歳(1650年)の正月に、師匠の薦めで京都に上り、儒学者の岡村三叔について、四書五経をはじめとする儒学の重要経典を学びました。それは3年間続きました。
なぜ、その学びが必要だったのでしょうか。それは仏教経典の読解に必要な要素であったからでした。
真言宗の行には「教相」と「事相」があります。教相とは真言密教の教えを体系的にまた組織的に学ぶことです。それに対し、事相はそれを学んで実践(修行)することを意味します。
律師は、事相の虫でした。明けても暮れても修行に打ち込んでいました。律師にとって教相も必要だと感じた周光法印は、律師が25歳(1653年)の時に高野山に赴き真言宗の重要な経典や書物を学ぶよう勧めました。律師はまたもや師のいう通り、高野山に上り『即身成仏義』『般若心経秘鍵』『十巻疏』などの密教経典を学びました。
高野山では蓮華三昧院の頼仙和尚を師として学ぶ一方、東寺にも赴き光弁阿闍梨の下、厳しい行を続け、金剛・胎蔵両界の潅頂を授けられました。つまり、事相の正式な教育を修了したのでした。
27歳(1655年)になった律師は高野山より再び永代寺に戻り、師の周光法印を助けながら、僧侶としての基礎を確立していきました。
その二年後(1657年)、大きな出来事が起こります。明暦の大火と呼ばれる大火事が江戸の町を襲いました。永代寺とこのお寺にも関係が深い富岡八幡宮も消失しました(次回に続く)。
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