湛海律師の生涯(2) ~聖天信仰との葛藤から戒律の学びへ~

35歳(1663年)になった湛海律師は江戸を離れ京都の粟田口(あわたぐち)に歓喜院を営みました。

粟田神社からの風景

明暦の大火から6、7年経っていましたが、師周光から永代寺の住職としての就任要請や、永代寺・富岡八幡宮の再建の依頼が舞い込みます。中でも頭を痛めたのが富岡八幡宮の再建です。この再建には莫大な費用を必要としていました。

そこで、以前より信仰を深めていた聖天様(歓喜天)にお願いを聞いていただくよう、江戸に赴き、体を痛めながらも一心不乱に願い続けます。夢の中に童子が現れ、大金を納める映像を見ます。数日してから、お寺に寄進をしたいという者が現れ、無事、富岡八幡宮は再建されたのでした。

湛海律師は真言宗の僧侶です。つまり不動明王を信仰していたのですが、それと同時に27歳の頃から聖天様にも帰依していました。この時期から、どちらの方を主に信仰すべきか悩むことになります。聖天様は、元々はインドの神様で、魔力を持つ集団のリーダーであった神です。歓喜天は実は、悪魔ではないのかという疑念を生じていました。

ある夜、聖天様が律師の夢に現れ「『覚禅鈔』という書物を見るように」というお告げを与えます。律師は東寺へお参りをした後、偶然訪れた大通寺(現・六孫王神社)で、この書物を手に入れます。そこには、歓喜天は邪神ではないことが、書かれていました。また、夢の中で「修行は熱心だが、仏学に欠ける」という指摘を受けていました。結局、大通寺に半年間通い、慧照老師から伝法灌頂を受け、阿闍梨の資格を得ました。律師が42歳の出来事でした。

44歳の時、ある変化が訪れます。真言宗の僧としてもう立派な僧侶でしたが、以前より縁のあったが円忍律師が歓喜院を訪れ、湛海律師に戒律を学ぶよう強く説きます。心を動かされた湛海は、歓喜院から離れて、つまり一旦聖天信仰を中断して、戒律の道を行くことを決意。そして46歳の時、泉南の神鳳寺(現・大鳥大社)に行くことになりました。

神鳳寺は、行基が創建し、日本武尊ゆかりの古社である大鳥大社の別当寺です。ここで3年間、戒律についてきちんと学び、円忍律師より具足戒(ぐそくかい)を授けられました。

さらに戒律の学びは続けられました。京都太秦広隆寺の奥の院である桂宮院、法隆寺東院伽藍にある北室へと続きます。

そして、ついに病に倒れ、床に伏せられたのでした。原因は精神的なものが大きかったと言います。一つは、住職として跡を継いでほしかった二人の師(周光と円忍)の期待に応えなかったこと、そして何より、聖天信仰を遠ざけてしてしまった、聖天様への罪悪感でした。

そんなある夜、聖天様が夢に出てこられ、湛海の今までの在り方を否定していない旨を伝えます。

そうして、心機一転、次の修行の場を、大自然の場所に求められたのでした(次へ続く)。

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