この前の記事にも書きましたように、楠木正成を追い詰めたのは足利尊氏でしたが、武士として誰よりも正成のことをレスペクトしたのも尊氏でした。
室町幕府の初代将軍は足利尊氏。第二代将軍は尊氏の嫡男の足利義詮(よしあきら)です。楠木正成(大楠公)の嫡男は、四条畷の戦いで亡くなった楠木正行(小楠公)です。
では、足利義詮は楠木正行に対してどのような思いを持っていたのでしょうか。
時は南北朝時代の真っ只中、二代将軍の足利義詮としては、南朝を支えどこまでも室町幕府に反逆する楠木正行のことを、とても厄介で疎ましく思っていた、と考えるのが普通です。
しかし、事実はそうではなかったのです。
義詮は、武勇の誉高くそして人柄も立派だったと言われる正行のことをレスペクトしていました。
正行が四条畷の戦い(1348年)でなくなり、義詮もその19年後の1367年に38歳の若さで亡くなります。
ただ「自分の墓は、必ず楠木正行の横にしてほしい」というのが、義詮の遺言でした。
正行と義詮の墓が並んで建てられてあるのが、京都嵯峨の宝篋院です。
宝篋印塔は、紅葉の名所です。近くには嵯峨清凉寺や大覚寺などの大きなお寺がありますので、秋にはすごい数の観光客が訪れます。
私が訪れたのは冬でしたので、私以外誰もいませんでした。
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