明智光秀ゆかりの西教寺(滋賀県大津市)は天台宗に属していますが、古くから念仏修行の場としてよく知られています。
天台宗は、禅(禅定)・円(天台)・密(密教)・戒(戒律)をその教えの四つの柱としています。
比叡山延暦寺の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)のように、阿弥陀如来をご本尊とし、念仏に励む場もありますが、西教寺の念仏道場は(現在の)建物も大きく、長きにわたり念仏修行を重視してきました。どうしてでしょうか。
このお寺の歴史は古く創建は飛鳥時代に遡るとされていますが、長年、荒廃していた状態でした。平安中期、良源上人(慈恵大師)が念仏の道場とし、その後恵心僧都(源信)も入寺してから栄えるようになりました。
室町時代、後に中興の祖と言われる真盛上人が入寺し、このお寺の再興に尽くしました。
真盛上人は、念仏を特に重視する天台真盛宗の開祖で、西教寺は全国に数多くある天台真盛宗の総本山となっています。ですので、西教寺は天台宗のお寺ながら「南無阿弥陀仏」のお寺でもあるわけです。
真盛は伊勢国(現在の三重県一志町)の出身です。生まれたのは室町時代の半ば、戦国時代のきっかけとなる最大の内乱、応仁の乱が勃発する少し前の1443年(嘉吉三年)でした。
7歳で寺に入り、14歳で頭を丸めて真盛と名乗るようになりました。19歳から比叡山で厳しい修行をしましたが、その後20年間その厳しい修行を耐えたのです。そして、権大僧都(ごんのだいそうず)という地位にまで登りつめます。
それは出世道でした。そのまま行けば、天台座主にもなれたかもしれません。
しかし、あることがきっかけで、念仏に目覚めたのでした。そのきっかけとは、自身の母の死でした。おそらく、いろいろと苦悩したのでしょう。
自分自身の栄誉よりも、念仏による救いを説くことに生きがいを見い出したようです。
その後、伊勢国内はもちろんのこと越前や河内にも赴き、念仏を唱えることの大切さを説いて回ります。そして、身分の低いものから高いもの(将軍や天皇)に至るまで、様々な人から慕われるようになりまいした。
1495年(明応4年)伊賀の西蓮寺で亡くなりました。享年53歳でした。
三重県津市白山町(旧一志郡)には真盛ゆかりの寺が多くあります。中でも成願寺というお寺には、真盛にまつわる宝物が納められています。
その中に「十念名号(じゅうねんみょうごう)」と呼ばれる、極楽往生との結縁を示す軸があります。結縁のためには、元来、僧侶と信者が互いに「南無阿弥陀仏」と10回唱えるわけですが、信者が病気など何らかの理由で僧侶に会えない場合、真盛が「十念名号」を授けて結縁させたと、言われています。
ちなみに、白山町は、三つの白山比咩神社がありますが、加賀の白山比咩神社から勧請されており、加賀とつながりが深い所でもあります。
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