48歳になった湛海律師が、次の住処としたのは医王山南禅寺でした。このお寺がある地域は、現在の奈良県御所市東佐味という地域で、このあたり一帯は風の森と呼ばれています。
ここで、湛海律師は長い間、かなりの苦痛を伴う苦行を行いました。座禅と瞑想の一行三昧(いちぎょうざんまい)です。一行三昧とは、とらわれのない純真な心で、一つのことに集中して他のことに心を乱さず取り組むことを言います。すなわち、一日一回の簡素な食事と用便以外は、座禅と瞑想に明け暮れたのです。
この苦行を200日ほど続けられました。
湛海律師が50歳になった時、押熊の常光寺の洞元(神鳳寺の学友)がここを訪ねてきて、戒律の師であった円忍律師が亡くなられてことを伝えにきたのでした。そして、生駒山のあたりを次の修行場にしてはどうか、という提案をします。
昨年あたりに、不動明王から「他の聖地に移るよう」促されていましたので、湛海律師はここを離れることを決め、新天地を生駒山(現在、宝山寺がある場所)に求めました。
新天地は、奈良県の生駒山の中腹あたりです。奈良時代に役行者が般若屈を設け、修行の地としたものの、今は荒れ果てて魑魅魍魎がすむ場所になっており、地元の人は近づくことすらしませんでした。
湛海律師が入山を決意したのには、もう一つの理由もありました。麓(ふもと)にあった村は大和で一番貧しい村と言われており、この山にお堂を建てそこを立派な信仰の地にすることで、地元の人々を豊かにするという思いです。
湛海律師は、今まで法山湛海と名乗っていましたが、ここを宝の山にするという思いもあり、これからは宝山湛海と名乗ることにしたのです。
実質的に(物質的に)何もないこの土地に、一からのお寺建設となりました。
昼は護摩供のための道場の建設、夜は厳しい行。特に冬は寒さがひとしおで、身だけではなく骨さえも断たれると感じるほどの寒さです。道場の建設には地元の人も加わりましたが、完成には二冬をこさなければなりませんでした。
湛海が52歳の時、この道場(仮本堂)はついに完成、ここで念願の護摩供をすることができたのです。
これ以降の律師の生涯を、宝山寺の沿革を記すことで、表したいと思います。
1682年(54歳):般若屈に弥勒菩薩坐像を安置する。この時の寺号は「大聖不動寺」であったが、山号を「都志陀山」(つしださん)をつける。
1684年(56歳):本山末寺の制により、西大寺の末寺となる。
1685年(57歳):奥の院に光明院建立。般若屈行者堂に役行者像を安置する。
1686年(58歳):西大寺長老となる。
1692年(64歳):寺号を「宝山寺」に変更する。
1699年(71歳):当時の関白・近衛基熙の病気平癒を依頼される。
70代は、天皇家や近衛家さらに徳川幕府からも、絶大な信頼を寄せられるようになり、湛海の名声は不動のものとなる。
1716年(88歳):入寂される(上記 『湛海律師の足跡』(奈良新聞社)を参照。)
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