前回、若江鏡神社の話をしましたが、そこから北へ300mほど行った所に若江城跡があります。1382年に建てられ、1583年に廃城となりました。今は碑が建てられているだけで、お城の遺構は何もありません。
しかしながら、ここの城主は目まぐるしく変わり、戦乱の世を象徴するようなお城でした。
時は1573年。数年前より関係が悪化していた織田信長と足利義昭(15代将軍)、ついに織田信長は足利義昭を京都から追放します(この辺りは、教科書や試験問題での定番なので、覚えている方も多いかと思います)。
二条城を退いた義昭が、向かったのは宇治槇原城でした。ここで織田信長に戦い仕掛けますが見事に敗北(槇原城の戦い)。では、その後、どこへ向かったのでしょう。
それが若江城(大阪府東大阪市)でした。当時の城主は三好義継。その妻は足利義話の妹(つまり、13代将軍足利義輝の妹でもあり、12代将軍足利義晴の娘でもある)でした。三好義継からすると、義昭は義兄であり、力はないとはいえ室町将軍です。
信長は、三好義継に義昭を毒殺するよう命じますが、義継がそれに抵抗したため、信長は次の手を考えます。それは調略でした。配下の老将、佐久間信盛を若江へ遣い、配下の者を城内に忍ばせ、三人の家老(若江三人衆と呼ばれた)池田教正、多羅尾綱知、野間長前(康久)を織田側に寝返らせたのでした。結局、義継とその妻(義昭の妹)は自害。義昭は堺へと逃亡します。
4か月の間でしたが、足利義昭はこの若江城にいたのです。
その後、一旦は石山本願寺の勢力にお城は占拠されますが、そこへ織田軍がやってきて若江城を落とします。そして、石山本願寺攻めの東の拠点として、このお城は利用されることになります。
1580年、執拗な抵抗を続けていた石山本願寺も(正親町天皇の仲裁だとは言え)ついに信長に屈服しました。その信長も本能寺の変で命を奪われます。1583年、役目を終えた若江城は、破却されました。
万物流転、栄枯盛衰。盛者必衰の理。
ふだん、何も気にせず通りすぎているものの中にも、このような無常が秘められていることに、興味を感じ、記事としてアップさせていだきました。
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