大阪府藤井寺市にある葛井寺は、その地に住み着いた葛井連(ふじいのむらじ)の氏寺として創建されたと伝えられています(藤井寺市の名前はここに因んでいます)。
何よりも、西国三十三所巡礼の第5番札所ということもあり、近畿を中心に全国から参拝客が訪れます。
また、ご本尊の十一面千手観音菩薩座像は国宝となっていますが、実際に1000以上の手があるということで、大変珍しい立派な仏像であります。普段は厨子の扉は閉められ観ることはできませんが、毎月18日にご開帳されます。
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(他にも、国の重要文化財である南大門や聖武天皇寄贈による石灯籠など、見所いっぱいなのですが、また別の機会に話をさせていただきます)。
さて、今日の話題である藤井寺合戦は、1347年におきた戦いです。時代は南北朝。北朝を擁する室町幕府とそれに抗う南朝勢力。南朝の中心部隊である楠木軍(正行、正時、正儀)の制圧を試みた幕府側の細川軍は、正行の館まで距離があったために、この藤井寺にて休憩をしていました。藤井寺からすぐ近くの誉田八幡宮あたりから、楠木軍が細川軍を急襲。700の軍勢で、その5倍あるいは10倍もあった細川軍を見事に蹴散らしました。大勝利を収めたのです。
今、その戦いの証であったものは何も残っていないのですが、唯一、残っているのが、葛井寺境内にある「旗掛けの松」なのです。この旗には、菊の紋すなわち王家の紋が示されていました。
お寺や神社には(もちろん、神社やお寺だけではありませんが)、こんな歴史が隠されているのが面白いですね。同じお寺でも、参る度にいろいろな発見があります。
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