前回は、京都北部の久美浜湾の畔にある如意寺をご紹介いたしました。
今回は、このお寺のご住職でいらっしゃいます友松祐也氏の「人生は、遊びである」という教えについて記したいと思います。
友松氏は「この言葉を誤解しないでくださいね」と前置きしながら、ご自身の著書である『苦を楽に生きる』からの文章を抜粋して「人生は、遊びである」ことを説いておられます。
その抜粋された文章を以下に記します。
私どもは、仏さまにいろいろなことを祈ります。仏さまはそれに応えてくださいます。最高の地位におられる「如来」は、すでに悟りを開いておられます。もう何も執着することも、心にこだわりもなく、「空」の境地を楽しんでおられます。しかし、「空」の境地を楽しむ「如来」が、なぜ、衆生を救おうとされるのでしょう。
人助けは、「如来」様も「観音菩薩」様も「明王」様もみな懸命にやっていただいています。しかし、なぜそんな疲れることをされるのでしょう。おもいやりが深いからでしょうか。責任感が強いからでしょうか。
実は、「如来」も、走り回って人助けをされる「観音菩薩」や「不動明王」も、衆生救済を”楽しん”でおられるのです。助けてあげた見返りもなく、忙しいとか疲れたと言うまでもなく、興のおもむくまま、人助けをただ楽しむ。だから嫌味もない。これは純粋な「遊び」であり、「菩薩行(利他行)」としか呼びようのないものです。とらわれもこだわりもない。恩着せがましくないので、助けてもらった方としてはとても気が楽です。だから、なおさらありがたいのです。
努力の末、悟りを開き、”もうこれ以上変わる必要がない”究極のやすらぎの境地を得た諸仏は、もう齷齪(あくせく)することはありません。修行にも、悟りにさえもこだわらない「空」の境地で向かわれた次なる行為は、「菩薩行」という「遊び」だったのです。せっかくの自由時間なので、ゆっくりされればよいものを、衆生救済の機会として活用されているわけです。「観音は融通無碍にして娑婆世界に遊ぶ」(観音経)のであります。
友松祐也著 『苦を楽に生きる』より
菩薩行ですら遊びである、と記されていますが、菩薩行が遊びであることの根拠は何でしょうか。
「無執着である」ことだと思います。
人生には、多くの時間が与えられていますが(仕事のように拘束されている時間も含め)その時間を過ごす営みが、無執着で行われること。つまり、損得からでもなく、利害関係からでもなく、親睦を深めるからでもなく、努力と継続によって進歩したいという思いからでもなく、「空性」の境地で、ただ楽しむという視点で、その時間を過ごす。そうなれば、「人生は遊びに転ずる」ということを、伝えたかったのでは、と解釈しています。
「人生は遊びである」。一見、わかりにくい言葉ですが、含蓄のある言葉だと思います。
(補足) 「助けてあげた見返りもなく、忙しいとか疲れたと言うまでもなく」という記述から、友松氏は元教員(あるいは現役)ではないかと思いましたが、実際に、元学校の先生でいらっしゃいました。生徒さんにたいへん尽くされた先生だったと思います。
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