浄土真宗はどうして二つの宗派に分かれたのか? 西本願寺と東本願寺

日本における仏教13宗派のうち、最大の信者数を抱えるのが浄土真宗です。

その浄土真宗もさらに10の宗派に分かれますが、ある二つの宗派が最大規模のものとなっています。それが西本願寺(本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)です。

この二つの宗派は、いつ二つに分かれたのでしょうか。

<東西分立以前>
1親鸞ー2如信ー3覚如ー4善如(1350~1390)ー5綽如(1390~1394)ー
6功如(1394~1436)ー7存如(1436~1457)ー8蓮如(1457~1490)
9実如(1490~1525)ー10証如(1525~1554)ー11顕如(1554~1592)

これには、織田信長と徳川家康が関係しています(直接は徳川家康)。

織田信長は、桶狭間の戦い(1560年)の電撃的な勝利以来、優れた精鋭部隊により領地を確実に広げてきました。が、そこに立ちはだかったのが一向宗衆徒(注)でした。

(注)一向宗は、戦国時代の浄土真宗のこと。

特に、大坂の一向宗の拠点である石山本願寺(その跡地が大坂城(大阪城))は、信長の10年(1570~1580)間にわたる執拗な攻めに対して、完全に屈することはなく抵抗し続けます。ただ、戦局は明らかに信長です。そこで、正親町(おうぎまち)天皇から和睦案が示されます。

その時の門主は第11代の顕如(けんにょ)でしたが、石山本願寺は二つに分かれていました。徹底抗戦を主張する顕如の長男・教如と、和睦(石山本願寺を明け渡し、鷺森別院に転居する)を受け入れること止む無しと見た顕如とその三男・準如(じゅんにょ)。

顕如は、最終的に和睦を選びました。そして、鷺森別院に移り、布教活動を再開したのです。

本能寺の変で信長が亡くなり、顕如は秀吉と和睦します。1591年、秀吉による京都の都市再生計画の中で、本願寺は京都に帰ることとなり、顕如は現在の堀川七条に阿弥陀堂と御影堂を建てます(これが、現在の西本願寺)。

翌年、心労尽きぬ顕如が亡くなります。次の宗主は教如のはずでしたが、いろいろあり結局のところ準如になりました。

<西本願寺の宗主>
12准如(1593~1630)ー13良如(1630~1662)ー14寂如ー15住如ー16湛如ー17法如ー
18文如ー19本如ー20広如ー21明如ー22鏡如ー23勝如ー24即如ー25専如

ただ、そのことを良しとしなかった教如。彼への支持勢力も弱いものではありませんでした。

そこに、関ヶ原の戦い(1600)に勝利した徳川家康が、教如を支持する姿勢を打ち出します。具体的には、京都烏丸七条の土地を教如に寄進します。一向宗(本願寺)は、武士勢力に敵対する強大な勢力、それゆえ、東西に分裂させることで、その力をそぎ落としたいというのが家康の狙いだったようです。

そして、この地に教如は大きな御堂を建てます。それが、今の東本願寺です。

<東本願寺の門主>
12教如(1602~1614)ー13宣如(1614~1653)ー14琢如(1653~1664)ー
15常如(1664~1679)ー16一如(1679~1700)ー17真如(1700~1744)ー
18従如(1744~1760)ー19乗如(1760~1792)ー20達如(1792~1846)ー
21嚴如(1846~1889)―22現如(1889~1908)ー23彰如(1908~1925)ー
24闡如(1925~1993)ー25浄如(1996~現在)

東山にある東本願寺別院

東西の勃興とその対立は、江戸幕府成立少し前から、起こり始めました。

この東西の両陣営、江戸時代には激しい対立関係が見られたものの江戸時代後半から和やかなものとなり、明治時代以降、さらに急接近しました。特に戦後は、このような雪解けムードの中、完全に融和の状態となりました。

浄土真宗の歴史については、津村別院の北御堂ミュージアムがとても勉強になります。本願寺派(西本願寺)からの視点ではありますが、ご関心のある方は訪れられることをお勧めいたします。北御堂ミュージアムのリンク(外部サイト)

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