西教寺(3) ~後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)~

西教寺の中興の祖を呼ばれる真盛上人は53歳の若さでなくなりました。生まれが1443年で、亡くなったのは1495年です。

このほぼ同時期に生まれ、そして真盛上人と出会うことで、南無阿弥陀仏に救いを求め、熱心な念仏者になられた方がいました。後土御門天皇です。

後土御門天皇も、1442年にお生まれになり1500年に崩御されました。真盛上人と同時代を生きた方でした。

後土御門天皇は、歴史の教科書などにも出てくることはなく、現在においてその存在をほとんど知られていない天皇かと、思います。

南無阿弥陀仏に救いを求める人は、自分の人生に嫌気がさし、この世に絶望した人が多いのではないでしょうか。

日本で最も高い位にあった帝が、どうして熱心な念仏者になられたのでしょうか。

それは、この時代と大きく関係があります。15世紀半ばから後半というのは、日本国中が不穏な空気に包まれていった時代でした。嘉吉の乱(第6代将軍暗殺事件)、将軍の継承問題、11年の間国内が焦土と化した応仁の乱、そして戦国時代へ。内戦時代の幕開けです。もはや、室町幕府に統制の力はありませんでした。

そのような時代、後土御門天皇は、この戦乱を鎮めることができないことに心を痛めておられました。天皇家には財力もありません(正しくいうと、経済的困窮の極み)。足利将軍が力を失い、世がどんどんと乱れていく事態をどうすることもできず、自己卑下の日々を送られていたのです。

そんな時に出会われたのが、真盛上人とその教え=南無阿弥陀仏でした。

上人は、後土御門天皇に阿弥陀仏との結縁(けちえん)をお与えになられました。

真盛上人が入寂された五年後、後を追うかのように帝も崩御されました。

この時の天皇家は権力だけではなく財力もなく、天皇の葬儀費用を捻出することができず、屍のまま四十日間も放置されていたそうです。

日本国の最高の地位にありながら、きわめて不遇な環境に置かれていた天皇。

西教寺本堂の内陣に「天皇陛下」という垂れ幕が掲げられています。全国には、天皇家とつながりの深いお寺は数々ありますたが、このような垂れ幕が掲げられているのは、西教寺だけかと思います。

本日は、西教寺に縁の深い後土御門天皇のお話でした。

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